震災
1月1日に発生した令和6年能登半島地震では、日本海側に大津波警報が発令された。東日本大震災を思い出した方も多かったに違いない。大震災で全国から様々な支援を受けた経験を踏まえ、東北からも救援物資輸送などが行われている。余震も続いている。自然豊かなふるさとの風景は、地震によって変わったが、人々のふるさとへの想いは変わらない。
新潟中越地震・東日本大震災など、これまでの被災地の教訓から災害への備えを考える時、被災地に寄り添い、景観や生態系など地元の生活を優先させた住民主体の町づくりが行われていくことを願う。
海と共に
東日本大震災では、犠牲者が出なかった洋野町。町内でも唯一防潮堤が無かった八木地区では、住家や漁港も船も線路も駅舎も流されるなど甚大な被害を被った。過去にも明治29年(1896)明治三陸津波や昭和8年(1933)昭和三陸津波など、いくども津波の被害を受けてきた。
住民の方々は、地震が起きたらすぐ高台へ逃げるという意識が教訓として刻まれ、人命を守る自主防災活動に取り組んできた。畑をつぶして津波がこない所に家を建てたり、高台への移転も行われてきたそうだ。先祖代々築き上げてきた土地の風景も変わった。
沿岸の集落を結ぶ南北の生活道路と西側山間とを結ぶ道がある。江戸時代中期から末期にかけて大野六ヵ鉄山など、たたら製鉄で生産された鉄は主に八木港から積み出された。中国地方の出雲と並び、東北地方の南部鉄は、八戸藩の財政を支える程栄えたものという。JR陸中八木駅ホームのすぐ前に八木港がみえる。
有事の際、八戸・久慈港の中間避難港としての役割をもっている。八木地区に新設された防潮堤(高さ12m 延長380m)は集落と海を隔てている。JR八戸線は、防潮堤の外、海側を走行する。
陸中八木駅から浜街道を南へ。小子内(おこない)地区に、大津波惨禍を伝える大きな碑が建っている。明治29年の明治三陸津波の頌徳碑と、昭和8年の三陸津波記念碑。地震と津波への教訓と備えが刻まれている。道の向かい側に大正時代柳田国男が訪れた清光館跡地に「清光館哀史」の一節が刻まれた石碑がある。宿は浜の崖の上にあったものか。
小子内地区でも津波被害のたびに海岸や川近くの住家は、高台へと移ったのだという。海との間には防潮堤がある。小子内海岸にも増殖溝が広がり、ウニやアワビ、ふのりやわかめなどの採介藻漁業がおこなわれている。