立春 春は名のみ
氷点下の冷え込み、大雪と暴風、雷、雨・・・天気は忙しく変わる。降る雪や積る雪の状態を変える。
雪の種類が変化して、層状に積もって重いのだ。この時季らしい寒さが繰り返す。
雪で折れた梅の枝に、いつのまにか花が咲いて室内は小さな春の香り。2月も多くの雪祭りが中止や縮小となった。
雪がちらつく極寒の夜空に花火が打ち上げられた。
海府浦
村上市の北部から山形県境までの日本海岸は海府浦(かいふうら)と呼ばれ、
景勝地「笹川流れ」や多くの海水浴場、漁港があり、自然豊かな景観をなしている。
江戸時代「奥の細道」で松尾芭蕉が「笹川流れ」の地を訪れていたら、いったい何と詠んだ事だろう。
2月は時化の日が多い。寝屋漁港では軒先に鮭が吊し干されている。
村上ならではの気候風土と伝統の技が、塩引鮭の独特の風味を生み出していて、とても美味いのだ。
海沿いの道
越後と庄内を結ぶ道は、江戸時代には山中を貫く出羽街道であった。南北に長く集落が点在する海岸線の地域は、
多くが山や崖が近くまで迫る交通の難所であった。そこに大正13年(1924)羽越線(羽越本線)が開通した。
トンネルや線路を作る事は難工事だったと想像ができる。集落と集落を結ぶ鉄道は、重要な役割を担ってきた。
現在はJR羽越本線に並行するように国道345号線が快適に伸びる。国道指定を受けた昭和50年(1975)には、
坑道のような素掘りのトンネルがいくつもあり、その後自動車が走りやすいトンネルや道路拡幅・架橋工事などが順次行われてきた。
「芦谷セット」は、もともとは羽越本線の構造物。
廃道 廃隧道
ここには困難を極めながらも、住民の手により掘削された隧道が改修されてきた歴史が見える。
上海府地区の間島(まじま)集落の北端に大正時代末頃に掘られたヒトハネ隧道がある。隧道が掘られた山は、源義経が馬で一気に跳び越えたことから、一跳山(ひとはねやま)と呼ばれるようになったという伝説をもつ。隧道の脇に、この山を迂回するように海側に道路が作られるまで、この隧道はコンクリートを吹き付け改修されて使われていたという。山を越えると北側は柏尾(かしお)集落。
山側にはJRのロックシェッドがある。荒々しい岩肌だ。ここは石材が切り出された場所で、江戸時代は村上城の石垣に、
昭和には岩船港の護岸工事に使われたという。海側に切通しの道が続く。柏尾海水浴場にも馬糞岩と呼ばれる源義経伝説が残る。
馬下(まおろし)地区の鳥越山一帯は、昔、崖にかけられたはしごや鎖を使い行き来するような難所で、源義経もやむなく馬をおりたという伝説があり、馬下の名前の由来がわかる。馬は粟島まで泳ぎ着き「粟島馬」の伝説が残っている。
江戸時代、馬下の両隣の早川・新保の和尚が発願し、7年かけて手掘りの隧道が安政5年(1858)完成した。実現した先人の挑戦と努力がどれほど命の危険を救ったことだろう。岸壁に作られた小さな隧道は、昭和に入り自動車が通れるように拡張され、坑口部には落石防止用の覆道(ロックシェッド)が作られた。大正浦隧道と呼ぶ。北側には、JR羽越本線のロックシェッドがある。荒々しい岩肌の一帯は採石が行われていたという。平成元年(1989)岩場を海側に迂回する馬下大橋が完成し、大正浦隧道は名前と共に役割を終えた。特徴ある円柱形の柱が並ぶ坑門が目に入った瞬間、懐かしい記憶がよみがえってきた。日本海の季節風が響く隧道を通り抜けたであろう人々や車、時代が変わっても確かに覚えていたいと思った。
伝えられてきたもの
海岸線の集落では、海との関わりが深い。海での安全を祈り、海の恵みに感謝して海の仕事に携わってきた。かつて吉浦・早川集落を中心に廻船業が行われていたという。江戸時代の日本海航路交流を物語る絵馬や寄進された鳥居、北方の衣類や仕事着などが伝わっている。山や川が集落の境で海の小さな岩も境界の目印になっているそうだ。共通ルールのもとで、山仕事や、山の上に畑を、かぎられた平地に田畑を作り、陸(おか)の仕事も行ってきた。
道は地域の発展を担っている。海と山に囲まれた地理的状況から、安全な海岸線を目指す取り組みや津波避難対策がとられている。