最上川流域で
最上川舟運は、江戸時代 上流域においても可能となり、元禄7(1694)年長井市に宮船着場が開設され、米沢藩の上米蔵が建てられた。さらに少し上流には商人達が造った小出船場がある。それぞれの物資の集散地に対応した往時の町並みが残されている。対岸には、船玉大明神の石碑などがあり、最上川に架かる長井橋の東側の入り口には舟運時代を物語る長井商人の像が立っている。
置賜盆地の北端、白鷹町は町のほぼ中央を最上川が北上する。河川の土手には、風に揺れるオキナグサ(翁草)の白い綿毛。春先の新芽を山菜として食べる事ができるというスイバ(酔葉)は雌雄異株。霜にあたった冬のスイバの葉も柔らかくておいしいと聞く。
風土病
最上川右岸に 貝生川と荒砥川が流入する扇状部周辺は、最上川の氾濫原で洪水の苦労も絶えなかった。なによりたちの悪い病気が恐れられた。江戸時代、洪水の後の河原で働く人達数百人の死者が出て以来、そこは病(やまい)河原と呼ばれたという。人々は神仏に祈り、病気を克服しようとした。
東北地方で最古の五重塔がある出羽三山の羽黒山では、悪疫退散・五穀豊穣を祈り、悪鬼に擬したツツガムシを焼き払う行事が毎年行われている。軒下には「引き綱」が魔除け・守り神として飾られる。
置賜三十三観音の二十七番札所 白鷹町高岡観音の境内には、南無阿弥陀佛・湯殿山合体碑があり、鉄門や蓮海の名があるそうだ。鉄門海上人は、文政3(1820)年秋田県湯沢市でケダニ(ツツガムシ)の調伏祈願を行っている。つつが虫病は、雄物川・信濃川・阿賀野川流域などでも発生した風土病であった。
つつが虫病
つつが虫病の研究を進め、治療に専念し、多くの患者を救った医師芳賀忠徳の功績を讃える碑が白鷹町横田尻にある。
人々から「毛ダニ医者」とあがめられたという。
最上川の右岸 白鷹町広野地区には、江戸時代三代にわたって医術を修めた新野松陵の碑がある。三代目広陵は「毛掘り医者」と呼ばれ、幕末期に多くの患者を救ったという。付近には毛谷明神(けだにみょうじん)がある。ツツガムシを祈り滅ぼす為、万延元(1860)年、当時の石那田村・馬場村の人々の手で建てられた。
毛谷明神の分霊が最上川合流近くの寒河江川堤防上にある。大正2年から3ヶ年間 河北町溝延付近で多発し、死亡率も70%を超えたため、石垣の万年堂を祀ったという。
つつが虫病は、恐ろしい病気で、原因がわからず治療法や予防対策もできなかった時代、ひたすら無事を祈願しての農作業や河川改修が行われたに違いない。多くの研究者達がその治療と研究に生涯をかけて取り組み、原因や治療法・薬が開発されてきた。まだ発症を防ぐワクチンはない。田畑での作業・河川敷・山菜採りなど、つつが虫病感染予防の注意喚起が出されている。
5月初めの新緑の山は緑の濃さを増して夏の山へ変わっていく。山の神は春に田の神となり、田の豊穣をみせてくれる。田植えの終わった5月の田んぼ。「サナブリ」は田の神に天上で休んでもらうという意味であるという。綺麗に植えられた苗と 空の青さと まわりの山々の緑が映り込んだ田んぼが広がっている。